晴れても降っても晴れ女

誰にも遠慮せず自分の思いを綴ってみたらば、、。

「等伯」

日本画家 長谷川等伯の一生を書いた小説  安部龍太郎 著

歴史小説としても
画家の一生としても
読み応えがありました。



特に

「下」巻はおもしろかったです。


最初は、「あ。映画にするなら海老蔵様!」と思いましたが
少々違ってました。


「利休にたずねよ」で利休役を演じた海老蔵様が
あまりに、はまり役でしたもので、利休の描写と思い出しながら、
比較しながら読みました。


利休も等伯も、時の権力者 信長と秀吉に翻弄されたのは、同じです。


同時代に生きて、二人は交流がありました。
美を追求する同志であり、利休に励まされる関係でした。


利休は信長に仕え、信長の残虐な面、無慈悲な面も知っていましたが、
美に対する点では、高貴で気品のあるものを求めて、それは、
利休にとって理解できるものでした。
しかし
秀吉(以下 猿と呼びます。故人なので支障ないでしょう)
に、仕えるようになった利休は、成金あがりで下卑た志向をもつ
猿の美意識を受け入れることはできませんでした。


猿は、そういう利休に畏れとコンプレックスを持っていたに違いありません。


等伯は、京都に向かう途中で信長軍の残虐で無慈悲なところに、被害をうけた側です。
幼い子供を抱きかかえていた僧と子供をも、殺傷する信長軍を許せませんでした。
それを無我夢中で助けたために、信長軍から追われる立場になります。


猿に対しては、「どこでも描かせてもらえれば」という気持ちが先行して、
下品な趣味嗜好の猿を利用(というか)して、大成していったように見えます。


しかし、猿が利休の切腹を迫る原因となったのは、大徳寺山門の利休木像であり、
「利休の下をわしがくぐるのか」という猿の言い分でありました。
そして、その大徳寺の門に画を描いたのは、等伯でした。


また、長谷川信春から「等白」と改めたのは、利休が名付けたのです。
その後、漢字を「等伯」としました。


利休を猿が切腹を迫り、その首を惨いさらしものにした時点で、
等伯は猿を許せなくなります。


ええ。
私は、猿が大嫌いです。


ただ、小説と美術館で見た等伯の年表は、齟齬がありますので、
その辺は私なりに理解してるつもりです。



かの有名な松林図屏風絵は、あまりに悲しすぎるエピソードがあったのです。



それは、等伯の長男久蔵が狩野派の手伝いに行った先で、不審な転落死を
してしまうのです。


等伯の嘆きはいかばかりか。


石川は能登の国七尾から、妻静子と久蔵を連れて、
絵仏師から絵師になろうと苦楽を共にして
長谷川派を立ち上げようとしていたときの久蔵の不審死でした。


この屏風絵は、妻静子、久蔵を思い、故郷を思い、
悲嘆の中から生まれた激しい情愛の噴出したものだったのです。


もしこれが映画になるとしたら、誰が等伯を演ずるべきか、
思い悩むところです。


ちなみに等伯は180センチの背丈で生まれは武士の子であり、
そこそこ武術に長けていたようです。